2009年10月02日

"かくも長き不在" プーチンのロシアと米原万里三周忌

【安東つとむのWEB街風通信(秋季号)】

米原万里さんが、わずか56歳でガンに倒れ、惜しまれながら逝ってからもう3年過ぎた。

 小・中学時代の5年間をプラハのロシア学校で過ごしたときの友情や思い出をいきいきと描き、政治に翻弄されたこどもの悲劇の真実を浮かび上がらせた『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』。

かつてのダンス教師の謎を追いながら、いまもなお本質的には変わらぬロシアの権力者たちの醜さおかしさを描いた『オリガ・モリソヴナの反語法』。

もうこんな傑作に、わたしたちは会うことができない。

 3年目の5月、米原万里が生涯を終えた鎌倉市の鎌倉芸術館で「米原万里 そしてロシア展」が開催された。連休中には特別講演会もあり、井上ひさしさんの講演と「米原万里、そしてロシア」のシンポジウムが開かれた。

 会場の小ホールの定員は600人だが、開会前から周辺は黒山の人だかり。キャンセル待ちの列まで長く伸びているのには驚いた。東京ならともかく、鎌倉にもこんなに万里さんのファンはいたんだ。

そんな感想は、実はとても不遜だったとあとから気がつかされるのだが。

 井上ひさしさんの講演は、米原万里の反語法の意味を、戯作者らしく愉快に素敵に語る魅力的な講演だったが、今回のテーマではないので、それはまた別の機会に。

 この日の白眉はシンポジウムだった。万里さんの恩師でもあるロシア文学者の川端香里男さん、元NHKロシア支局長・小林和男さん、それに万里さんに励まされ続けたロシア文学者・沼野恭子さん。

 シンポ全体が白眉だったとはいわない。
そのある瞬間から、それは劇的に変わったのだ。

 小林氏は元NHK支局長の人脈を活かして最近プーチンに会ったそうだ。そこで「びっくり仰天の体験」をしたという。

 「プーチン元大統領・現首相のことを皆さんは嫌いでわたしもそうだったが、ロシアの若い女の子はプーチンが大好きだ。

プーチンは官邸に柔道場をもっていて、そこには加納治五郎の等身大のブロンズ像や写真があり、彼は毎日拝んでいる。

プーチンは柔道は単なるスポーツではなく、日本の文化や伝統、精神から生まれたもので、柔道を知らなかったら、自分はここにいなかったと言う。

日本人はそういうプーチンのことを知らない。もっと理解すべきだ」

 わたしは体が震えるほど怒っていた。では、万里さんがあんなにも憤り、死ぬまで「わたしはチェチェン病だ」と言っていたほど同情していたチェチェン人の民族的悲劇を起こし武力制圧と民族浄化さえ推し進めているのはいった誰なんだ!

 ロシアではプーチンに批判的で反体制的なジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤさんやリトビネンコが次々に殺されているのを、どう考えているのだ!

 すると、可憐にさえ見える沼野恭子さんがこう反論した。

「ロシアの文学者たちは、ずっと権力と闘ってきた。ロシア人の反骨精神、反権力、そしてロシアの中の良いものや文化を守っていこうとす気持ちを、万里さんも認めていた。

アンナ・ポリトフスカヤさんのような優れたジャーンリストが頑張ってきたのに、わたしにはプーチンがどうしてロシア人に圧倒的に支持されているのか、知りたい。

こんな大変な歴史をもっていて、こんなに悲惨な思いをしてきたのに、また同じ道を歩むのかと、悔しい気持がします」

 シンポジウムをただ黙って聞いていた会場の人たちの中から、大きな拍手がわいた。

それは明らかに、プーチンに手もなくあしらわれて趣旨替えをして権
力におもねる元ジャーナリストへの強い非難を含んだものだった。

 シンポから2ヶ月後、かつてアンナ・ポリトフスカヤさんの仕事を手伝っていたジャーナリストのナターリア・エステミローワさんが、チェチェンの自宅前で誘拐され銃殺死体となって発見された。

ロシアと同じく、プーチンの傀儡カディロフ政権の下では、反体制ジャーナリストを殺した犯人は発見されないし、罰せられもしない。

そのことを、メディアは大きくは伝えない。継続的なニュースすらない。体制側に乗っ取られたロシアの「国営」テレビはもちろん冷淡な扱いだ。そして日本のジャーナリストはこのざまだ。

 米原万里逝って3年、?かくも長き不在?を感じさせるシンポジウムだったが、しかし、あの600人の拍手の意味を考えるとき、希望がないわけではない。

ロシアの文学者・ジャーナリストにもそうであってほしい。
                    
『nudei』(ヌーディー)第2号より

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
※ブログ編集担当・注
下記のものはチェチェンニュースのメルマガで紹介された時の文章です。

(前略)
 安東つとむさんという人が季刊で発行している、『nudei』(ヌーディー)というヘア業界の業界誌に、米原万里さんの3周忌と、プーチン政権についての記事が載った。

 業界誌・・・という括りは無理かもしれない。ウイグル、チベットなどの、マスメディアがあまり報道しない問題も、積極的に掲載しているくらいだから。

ミニコミがインターネット上のものになり、マスメディアが衰退していく中、こういう形で船出する人がいるのだ。

 半分くらいの記事が、社会問題に割かれている。とくに、「チェンジアップは投げられない」という連載記事は出色の出来。野球ストから郵政払い下げ、規制緩和、格差の問題までを無理なく縦横に語っているのがすごい。

 メディアの転換に果敢に取り組む人にしか書けない、触れば切れるような鋭い一文を紹介したい。(大富亮)



ラベル:国際 文学
posted by フォーラム色川 at 18:02| 東京 ☔| Comment(1) | TrackBack(0) | コラム 安東つとむのWEB街風通信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月27日

日系ブラジル人の残した文化

【安東つとむのWEB街風通信 3月号】

「派遣切り」が横行し、大企業の身勝手さで解雇になった人びとの悲惨な映像を年末年始からテレビはずっと流し続けてきた。

 そういう時代であることは間違いないし、すぐに忘れやすいわたしたちの記憶に、こんな時代を刻印させてくれていることに感謝している。

 たとえばそれは、群馬県の大泉町や浜松などで、大量の派遣切りにあった日系ブラジル人たちが、アパート代もこどもの教育費も払えなくて、ブラジルに帰って行くしかないという映像であったりすると

もう心を痛め、時には体を震わせて、この人たちはきっと、おじいさんたちの祖国である日本に絶望して帰ってしまうんだろうな、こんな思いをさせたやつは「国辱もの」だ、などと口走ってしまうことになる。

 そう思って、わたしとわたしの友人は、ブラジル移民のことに詳しい人に会って、自分たちはどんなことができるか聞こうとした。

正義感の強い年若い友人は、群馬県の大泉町という日系ブラジル人たちが多く住んでいる町まで行って、実情を見てきたほどである。

 しかし、わたしたちは、自分たちが何も知らなかったことを痛感することになった。

 現在、日本に住んでいる日系ブラジル人はどれくらいいるか。聞いてびっくり、32万人である!日本と戦前から深いわけありの関係にある在日コリアンでさえ約60万人といわれているが、あの地球の反対側の国から、32万人もの人が来ているとは本当に驚いた。

だって、わたし住んでいる街には、ブラジルの人なんていないぞ。
 
それもそのはず、日系ブラジル人たちは、ほとんど集中して住んでいる。群馬県の大泉町や浜松や、ほかのある町では社宅全部が日系ブラジル人ばかりということもある。そのどこも、大工場があるからだ。そしていま、大工場が次々に派遣切りをして、彼らの困難が始まった。

 しかし、と日系ブラジル社会に詳しいジャーナリスト・藤崎康夫さんは言った。

「日本の中小企業の工場は、好景気の時にはむしろ人が足りなくて倒産することがあった。だから、日本語ができて安い賃金で働いてくれる日系ブラジル人は、とても貴重な労働力だったのです」

 彼らが日本で大量に働きだしたのは、1980年代後半、つまりバブル時代である。ブラジルの日系人社会では、日本人移民のUターン現象が起きたほどである。

 問題は、そのUターンした国が、彼らをどう見ていたかということである。

たとえばヨーロッパでは、移民した人びとが故国にUターンしたら、彼らのこどもたちは何世代にわたってほぼ無条件に国籍が取れる。二重国籍もOKである。

 日本はどうか。日本人の父か母を持ちながら日本国籍を取れないで、言葉も知らない見たこともない国に強制退去させられるこどもたちのニュースが何度も流れるほど、この国は移民した人びとに冷たい。だから彼らは「棄民」だと感じるのだ。

 それでいて、人手不足になると、いわば調整弁的に日系人を雇用して、今回の大不況の時にはさっさと首を切る。もっとわたしたちは、移民していったかつての日本人たちのことを知らなければならない。

 それに、と数十年日系人を取材し続けた老ジャーナリストは続けた。「彼らの中には、かつて日本にあった文化や、礼儀が残っています。生け花も書道も盆踊りもみんなそのままのかたちで残っているのです」

 この話は、京都から流刑にされた貴族が残した文化や踊りが、孤島ゆえにそのままのかたちで残っているといわれる佐渡島のことを連想させられた。

 それに、よく「武士道」の精神に戻れという人がいるが、本当の武士道精神は、言葉だけ都合よく使うが武士道の気配すら感じられない彼らの中にではなく、日本が「棄民」した人びとの中に、実は残っているのかもしれない。

 これが、ようやく今ごろ日系ブラジル人社会の世界を知り始めた、わたしの感想である。
ラベル:国際
posted by フォーラム色川 at 18:00| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム 安東つとむのWEB街風通信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月09日

『坂の上の雲』の街・松山

【安東つとむのWEB街風通信】(ひさしぶり)

 松山は不思議な街だ。これまで4度訪れたが、そのたびに印象が違うのだ。
 わたしの父は、はるか昔、旧制の松山中学に通ったそうだ。だが、父からは松山の印象を聞いた記憶がない。

ただ、ここでの体験を背景に書いた『坊っちゃん』はすすめられて読んだ記憶がある。それぐらいしか、松山とのかかわりはなかった。




 初めて行ったとき、誰でも訪れる「漱石も通った温泉」道後温泉に行ったことしか覚えていない。

 2回目の印象はもっとひどい。ただひたすら平坦で大きな街。明るくて静かで、昼日中にも人通りが少ない街。それが印象だった。

 3回目に初めて、子規記念館に行った。漱石と子規の交友の緊密さを描いた展示を見て、初めて松山に人の息吹のようなものを感じた。

 その程度だから、松山について、人に紹介するような評価などなかった。あの漱石だって、『坊っちゃん』では、松山の人びとにけっこう厳しい評価をしていた。
 
でも、よく考えれば、そんな書き方をされているのに、松山の人びとは優しい。

わずか1年しか滞在しなかった漱石の旧跡を顕彰するだけではなく、いわばボロクソにいわれたはずの『坊っちゃん』を記念する文学賞までつくりあげた。

それも「青春文学賞」である。いまそれは、全国の小説志望のわかものの間では評判の文学賞となっている。松山の人びとは懐が広い。
 
昨年4月には、「坂の上の雲ミュージアム」を開館した。いまこんな時期に、
新しいミュージアムをつくるのは、どこも財政的な問題をかかえる地方自治体では、きわめて珍しい。
 
しかし、建築家・安藤忠雄の設計によるこのミュージアムは、市民たちから愛
されている。というより、市民を積極的に参加させて、ともにつくっていこうという姿勢を強く感じさせる。

 「坂の上の雲」をイメージして、ゆるやかなスロープが3階展示室まで続いているが、たとえば今なら、「『坂の上の雲』1000人のメッセージ展」と名づけて、この小説を受けとめた市民のメッセージや、小説をイメージした芸術家のオブジェ作品などが並んで、目を楽しませている。



 
つまり、『坂の上の雲』をみんなのテーマにして、市民みんなでこの作品を愛
でて、作品ににじんでいるテーマをさらに深め、紡ぎ出していこうという姿勢が強く感じられる。
 
『坂の上の雲』は司馬遼太郎が生前映画化・ドラマ化を断ったエピソードがあ
る。日露戦争勝利を強調しすぎて好戦的ととられるのを司馬は嫌ったのだろう。

だから、松山市はこのミュージアムをつくるとき、そのようなイメージとなるのを避けて、むしろ平和の意義がにじみ出すような市民参加型をすすめているようだ。

2回目に行った道後温泉も、もっと歴史を感じさせて味わい深かったし、松山の印象はずいぶん変わった。
 
いや違うのだ。本当は、その姿を、わたしがとらえることが出来なかったということなのだ。変わったのは、こちらの方なのだ。いくつになっても、恥ずかしいと思うことはあるものだ。
ラベル:歴史
posted by フォーラム色川 at 18:08| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(2) | コラム 安東つとむのWEB街風通信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月03日

 もう一つの人生の見つけ方

安東つとむの『街風通信』 9月号

 わたしの同年代の友人たちは、 そろそろ定年である。

ということは、わたしもそうだということだが、 そこはフリーのもの書きの強さで、いつも不安定な状態が日常だから、 急に会社も仕事もなくなって、何をしたらいいかわからないという境遇には無縁である。

 おまえたちはオレと違って今まで安定していたのだから、それぐらいは当然の代償だと冷たくするほどには性格が悪くないので、ごく親しい友人をつかまえて、もう一つの人生をともに何かやろうかと一緒に考えることもある。

 しかしそれは、わたしだけのことではないし、じつはフリーライターだけの特権でもないらしい。

 少し前までは、こんな話が定年間近の男たちを不安に陥れていた。妻に老後の人生をともにどう生きようかと相談したら、「退職金の半分をいただいて、わたしは離婚して一人で生きていきます」と宣言されたというのだ。

 女ともだちに聞いたら、「あたしだって、突然ダンナが一日中家にいてごろごろされたら、うっとおしくて我慢できないわ!」

 人生のほとんどを会社と我が家を往復して過ごし、家族と会社と、まれには国をささえた男たちは、その人生の最後の実りの時期になって、困惑することになる。

 多少は男たちにも罪がないわけではない。家や家族ををほっといて、仕事やそれにまつわる会社の時間を優先したツケとか、すべて妻に家のこと家族のことを任せきっていたこととか、会社の人間関係しか知らないから、上下関係以外の人間関係の作り方を忘れてしまったとか、たいした罪ではないものの、それは確実に自分自身に返ってくる。

しかもそれは、自分の人生を作り直すという時に、どんとまとめて現れるというわけなのだ。

 どうするのかと人ごとでなく心配していたら、テレビでこんな話を紹介していた。

 定年後、息子の赴任先の九州に住んだけど、そこで何をして過ごしたらいいかわからない。新しい友人関係をつくるのも困難で、終日ぼんやり過ごして なんだかどうにかなってしまいそうな日々。

そ こにある時、定年後の男たちのサークルがあることを聞き、入ってみた。

そこではまったく新しい人間関係があった。つまり、タテ関係ではなく、だれもが平等なヨコのつながり。

 そして、やがて新しい仲間たちと、喫茶店を経営することになった。儲けはわずか時給2百円! それでも、何かを見つけた喜びは 金では表現できない。

 わたしの恩師は、八ヶ岳の高原の麓の村で「猫の手くらぶ」という地域の小さなサークルをつくっている。そこに集まる人たちは、定年後の人生を妻と2人、あるいは独りで静かに過ごす人びとばかりである。

当然、困ったときに、すぐ近くに人はいない。それでも、「猫の手くらぶ」がそのかわりを充分担っている。

「猫の手くらぶ」には、会員の間だけに通用する通貨“ニャン券”がある。1ニャンは500円相当。それでたとえば、駅まで送り迎えしてもらうには2ニャン、薪割りなどの力仕事は4ニャンとか。

 「猫の手くらぶ」の約束ごとは一つだけ。それぞれの過去をほじくらないこと。

元大学教授だろうと、会社の役員だろうと、なんだろうと過去は問わない。いま静かにともに雪月花を楽しむ友であればいいのだ。
 
この話のおとしどころは、こういうことだろうか。ある時期、定年後の男たちを不安にさせた、人生最後の時間の過ごし方について、男たちは、つまりわたしたちは、ようやく手に入れたのかもしれない。


街風通信08年9月号写真.JPG
posted by フォーラム色川 at 16:44| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム 安東つとむのWEB街風通信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月29日

ふつうの市民がチカン冤罪になるまで

【安東つとむの街風通信 8月号】

秋のはじめのある夜、57歳の中間管理職沖田さんは、吉祥寺の飲み屋で一杯傾けたあと、中央線に乗って国立の家に帰ろうとしていた。
 
車内でかなり大きな声で携帯電話をしている背の高い若い女性がいた。次の駅を出てもまだ話しているので、「電車の中で携帯電話はやめなさい!」と注意したら、「分かったわよ!」と腹立たしげににらみつけながら電話を切った。

なんだか恐くなって7〜8メートルほど離れて、国立で降りた。 駅の南口から我が家に帰ろうとして歩いていたら、制服の警官に呼び止められて、「今、電車の中でチカンしませんでしたか?」と言われ、びっくりして「何のことですか?」と聞き返したら、もう一人の警官が小走りに来て、いきなり「逮捕する!」

「逮捕状を見せろ」と要求すると、「逮捕状なんかいらねえんだよ!女がやられたと言っているんだから!」とそのまま逮捕されてパトカーで立川署に運ばれてしまった。

これが、いま最高裁で国家賠償訴訟中の「チカン冤罪事件」の発端である。
 
チカンされたと訴えたのは、いうまでもなく電車で携帯電話していた若い女性である。その後の裁判で、彼女は女子大生で、取り調べ検事からすれば「かなりの美人だねぇ」。美人に弱いのはおまわりさんだ。現行犯でもないのに、いきなり逮捕なんだから。

チカン行為を断固否定した沖田さんは、それからなんと21日間も勾留された。勾留の理由は、「逃亡の恐れ、証拠隠滅の恐れ」だという。チカンの罰金はわずか5万円。

そのために大手会社の中間管理職の職を捨てる人はいるか! それに
、その女性の連絡先も知らないのに、どうやって“証拠隠滅”をするのか! これらはもちろん、長期間の勾留で自白を強要することを基本にする日本の警察の、国際的に強く非難されているやり方のためである。
 
この事件は今から9年前のことである。同じようにチカン冤罪を取り上げた映画『それでもぼくはやっていない』といい、ここ数年のチカン冤罪は目に余るほど多い。

どうしてか。「女性は弱い存在だから、女性の言うことなら正しい」と
いう思いこみがあるからだ。それを“利用”する女性が増えたということである。

もう一つは、自白中心の日本の警察の捜査能力の問題がある。沖田さんの場合、女性が電車で携帯電話していた相手の証言を勾留10日以上たってからやりはじめたり、チカン申告したと女性が言ったJR職員への事情聴衆もしていない。

つまり、ひたすら勾留して、隔離された環境の中で脅してすかして自白させるしか、日本の警察の「捜査能力」はないということなのだ。

21日間の長期拘留のあと、結局釈放せざるをえなかった警察と検察、つまり国に対して、2年半悩んだ末に、沖田さんは国賠訴訟に踏み切った。
 
裁判の過程では、女性の証言がメチャメチャだったり、捜査記録がなぜか廃棄処分になっていたり、よくぞこんなボロボロな状態で検察や警察は裁判をやっていたものだと驚くばかりだが、実はこんな露骨で明らかな冤罪事件なのに、日本の裁判では冤罪被害者が勝つことは困難なのである。

それが根本的な問題である。

その理由はいくつかあるが、警察が捜査で入手した情報や証拠で、被害者にとって有利な証拠でも、検察側がそれを隠していたら分からないし、提出を拒否することができるという大きな問題もあるのだ。

したがって、明らかな間違いや冤罪の場合でも、国が被告の場合は、日本の裁判所は、ほぼ間違いなく国を擁護する。「チカン事件の99.9%が有罪という馬鹿げた時代風潮」と、作家・阿川弘之氏も指摘する現実があるのだ。
 
沖田さんの場合も、一審・二審とも原告・沖田さんの請求は棄却された。現在最高裁に上告中である。

あの「桶川ストーカー殺人事件」でも、警察の信じがたい捜査怠慢と隠蔽工作が、勇気ある一部ジャーナリストにより暴かれて、マスメディアから糾弾され、警察のトップが被害者の女子大生の遺族に謝罪した。

にもかかわらず、同じような国賠訴訟では遺族側が敗訴してしまった。こんな奇妙なことが横行する国は、きわめて珍しい。

写真の2冊の本は、最近出版された雑誌「冤罪File」と、沖田さんのたたかいの記録である。

「冤罪File」では、全国の冤罪事件がリアルに告発されているし、かつて警察幹部で、今は「死刑廃止を推進する議員連盟」のメンバー
でもあるあの亀井静香議員が「すべての冤罪を防ぐことはできない。せめて生命を絶つことはやめるべきです」とインタビューに答えている。

しかし、こんな本や雑誌を支援者以外に誰が買うのか、きっと赤字だろうなと思うのだが、編集部に問い合わせたら、意外と売れているという。しかも、「冤罪File」は3号目である。

隔月発行のこういう雑誌が売れているというのは、ふつうの市民の健全な感覚が存在しているということだから心強いけれど、でもきっと、実は大口で買っているのは、警察や検察や裁判所に違いない。

だって、自分の“犯罪”ほど気になるものはないし、「犯罪者は必ず犯罪現場に戻ってくる」とよく口にするのは、警察のみなさんではありませんか。
ラベル:社会
posted by フォーラム色川 at 18:07| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム 安東つとむのWEB街風通信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月30日

2つの絵の間にあるもの

【安東つとむの街風通信 7月号】

 写真の2枚の絵は、まったく違うように見えるが、同一人の作品である。絵画に詳しい人でなければその名を聞いてもわからないかもしれないが、ロシア・アヴァンギャルドの中心的作家カシミール・マレーヴィチの作品である。
 
 一方の作品では、耕された丘の豊かな農地を背にして中央にすっくと仁王立ちしている「農婦」の絵。1920年代初頭の作品だから、1917年のロシア革命の直後、芸術運動も革命とともに手を組んで歩んでいた幸福な時代の作品である。

農夫.JPG

堂々たる農婦の姿には、マレーヴィチたちの昂然とした意気が感じられるようだ。
 
もう一方の作品は、まるで1880年代の印象派の肖像画のように見えるが、1933年に描かれたマレーヴィチ晩年の「自画像」である。その表情にある厳しさは、十数年間の過酷な歴史の厳しさを表現しているかのようだ。
 
自画像.JPG

マレーヴィチはロシア・アヴァンギャルドの中でも、とりわけ抽象画の大家である。全盛期の作品には、白いカンバスに白い十字架を描いて究極の芸術を表現した。
 
抽象画を好きかと言えば、わざわざ見に行くほど好きなわけではない。しかし彼らの目指したものには、強い興味がある。ロシア革命に先んじて、芸術の革命を進め、レーニンの政権が成立してからは「同道者」として芸術部門の担い手となり、その後の世界の美術に大きな影響を与えたアヴァンギャルドの作家たち。

しかし、彼らのそれからの運命をたどると、心穏やかにはいられない。どうしてそんなことにこだわるのか。渋谷のザ・ミュージアムで「青春のロシア・アヴァンギャルド展」が8月17日まで開催している。

 うすうす聞いてはいたが、その栄光と挫折はすさまじい。

 彼らが20世紀初頭ごろから試みたことは、それまでの芸術の破壊と新しい芸術の創造であり、まったく新しい芸術の創造だった。帝政ロシアが悲鳴をあげて倒れ、革命政府が樹立されていくより早く成立した芸術の革命だった。

 しかし、権力を握ったスターリンの登場は彼らの運命を狂わせる。スターリンの意を汲んだプロレタリア派の芸術家たちは、アヴァンギャルドたちの実験を激しく非難した。

 あんなわけのわからない絵は労働者大衆の利益にはならない。ブルジョワ的な自己満足だ。独裁権力とそのエピゴーネン(おべっか人間)のやることは、昔も今も変わらない。

ヒットラーもまったく同じことをやった。

 非難され、迫害されたアヴァンギャルドたちは、ある者は国外に亡命し、ある者は沈黙を守り、ある者はそれまでの仲間たちからのけ者にされ、社会的に抹殺され忘れ去られたあげく、スターリングラード包囲戦のさなかに餓死した。(パーヴェル・フィロノーフの悲劇)

 ついでにいえば、彼らを迫害したプロレタリア芸術派たちもまた、1932年、スターリンが「すべての文学・芸術団体の解散」を命令したとき、息の根を止められた。

 こうして、ソヴィエトという社会から芸術は消滅し、そのあとには粛清と弾圧の数十年間が待っていた。

 マレーヴィチの自画像の目が見つめていたのは、自分たちの未来だったのだろうか。
ラベル:歴史 芸術探訪
posted by フォーラム色川 at 18:04| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム 安東つとむのWEB街風通信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月30日

若葉の下の“クラシックの革命”

安東つとむの街風通信 6月号

 昨年から私たちは、ゴールデンウイークは旅行に行くのをやめて、有楽町の東京国際フォーラム周辺で開かれている「ラ・フォル・ジュルネ 熱狂の日」音楽祭に行くことにしている。

私たち、というのは、年ごとに一緒に行く友人が増えていくからである。しかしそれにしても、音楽祭はすでに4回目を数えるのにどうして昨年から行き始めたのか。

 私の友人は、どういうわけか朝日新聞の購読者が多い。
たぶん子供の頃から朝日新聞で育ったので、ほかの新聞を読む気がしないのかもしれない。それに、憲法改正を容認するような論調の新聞は、ちょっと敬遠したいというのも本音だろう。

 ところが、そのせいで、私たちは日本で初めてのこの素晴らしいクラシックの祭典に行くことがなかった。どうしてか。音楽祭を主催するのはライバルの読売新聞である。

朝日にはほとんど紹介されない。したがって、昨年私が初めて訪れ
るまで、ほとんどの友人は、この音楽祭のことを知らなかった。
 
これは昨年も書いたけれど、たまたま偶然に「ラ・フォル・ジュルネ」に来て正直驚いた。街中がクラシック音楽に溢れ、ごくふつうの人びと、下町のおっちゃんからおばさんまで、クラッシックファンから初めてクラシックを聞く人まで、いろんな人が心から楽しんでいる。

音楽キオスク1.JPG
「ラ・フォル・ジュルネ」では青葉の下のミニ・コンサートもたっぷりと。

しかも、世界的音楽家やオーケストラも来れば、地域で活動している音楽サークルもいる。それらが一日中どこかでクラシックを演奏し、それをビールを片手に聞く人、同じ音楽家として楽器を片手に熱心に聞く人と、それぞれまったく自由なのである。

 あまりに感心したので、今年は記者会見まで行ってみた。そこで主催者がこう言った。「ラ・フォル・ジュルネは大手町・有楽町の新しい風物詩として定着しました。昨年は70万人が来ました。

オープンステージ2.JPG
大きなオープンステージでもオーケストラの演奏が


アンケートでは、初めてクラシックを聴いた人が40%もいました。聴衆とクラシックの高い壁を超えるという目的を達した。日本の音楽祭の新たな道を拓いたと思う」その通りである。

 「ラ・フォル・ジュルネ」で、もう一つと言うか、もう一人、貴重な人を私たちは発見した。青島広志という音楽家にして評論家である。

青島先生3.JPG
青島広志さんはクラシック界の奇跡のような人。こういう存在そのものが、「ラ・フォル・ジュルネ」の“革命”を実現させたともいえる

 
東京芸大を出て、いまは大学で教えるし、作曲はするし、指揮はするし、ピアノは弾くし、音楽祭の司会もするし、本も書く。しかも、高度な内容の音楽の話でも、どんな人にもわかりやすくしかも面白く解説する。まるで漫談を聞いているかのようだ。

こんな人は日本にいなかった。私たちはあまりに、高尚な音楽というイメージにふさわしい高尚そうな人ばかり見せられてきたから。

 朝から夜まで音楽祭会場をハシゴする人、ずっとテラスで飲んだまま、時折開かれるオープンステージの音楽を楽しむ人、青島さんの話に体を揉んで笑い転げる人。

こんな風景が、これまでの日本にあっただろうか。“日本のクラシック音楽の革命”とでもいうべきこの姿を、たった一つのメディア、というか一つの活字媒体だけに紹介させていては、ジャーナリストの名が廃りはしないかと、長年愛読してきた新聞社に強く進言したい。

 来年は「バッハとヨーロッパ」がテーマだ。青葉の中で音楽漬けになる喜び。
この楽しみは、まだ始まったばかりなのである。

ヴェトナム演奏家4.JPG
さまざまな交流も。ベトナムの女性演奏家たち

ラベル:社会 芸術探訪
posted by フォーラム色川 at 16:03| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム 安東つとむのWEB街風通信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月06日

聖火はチベット問題宣伝隊となった

安東つとむの「街風通信」5月号

長野市の北京オリンピック聖火リレーは、いったい何だったのだろう。聖火をもつランナーのまわりを数十人の「警護ランナー」が囲み、沿道の人々は聖火はチラッとしか見えない。

しかしそれでも、数千、数万人の人々が沿道を埋めていた。その人々は、ほとんど長野には関係ない。彼らは長野で一種の「代理戦争」を担ったのだ。

一方は中国政府の、片方はチベット亡命政府の代理として。
 
もちろん、おもに弁当込みの往復バス代2000円で来た5千人を超える在日中国人留学生たちは、「政府の代弁なんかしていない。わたしたちは純粋に北京オリンピックを応援したいのだ」と言うだろう。

それは真実だと思うが、そういうはしから「ワンチャイナ」「チベットは中国だ」と言い放ち、「西欧マスメディアはチベット問題を間違って報道している」と非難する。

それではまるで中国政府の言うことのオウム返しではないか。つまり、動機はどうであれ、代弁者でしかなくなってしまう。
 
どうしてそうなるのか。世界中から自分の国が非難されて、にわかに愛国主義に目覚めた若者が多いということなのだろう。
 
実際には、長野の衝突の最前線には、一部戦闘的な右翼の方をのぞけば、対話を呼びかける人々が少なからずいた。そこではこんな会話が生まれていた。

「わたしたちは平和の祭典北京オリンピックの開催を応援したいだけです。それは日本人と同じのはずです」「チベット問題ではマスメディアは真実と違うことを報道しています」

 それに対して「あなた方は中国の報道が正しいと思っているのですか」「中国は報道規制しているではありませんか。報道の自由がないのに、どうしてチベット問題は間違って報道されていると言えるのですか」

 この論争は、どうしても中国人留学生の方が分が悪い。だから彼らは顔をしかめつつ「わたしたちはその状態を変えようとしているのです。ご支援ください」

 テレビは衝突場面や聖火の妨害シーンばかりくり返していたが、双方で1万人近くいた中国とチベット支援者の対立の渦の中では、そういう対話が生まれていた。

 聖火リレーはメンツを重んじる中国政府の意図に反して、全世界で「チベット問題宣伝隊」の役割を果たした。

20年以上にわたって中国に侵略され弾圧され拷問され続けたチベットの人々の支援をしてきたものとしては、中国政府の強引さは、かえって大きな効果があって、喜ばしいことである。

 だってそうでしょ。わずか15年前までは、日本ではチベットのことを知る人はほとんどいなかったし、中国が侵略を宣言したとき、チベットの首都ラサには中国人は1人しかいなかったことも、誰も知らない。

その意味では、聖火は日本における「チベット元年」を告知して走ったといえるのかもしれない。

 だが、チベット民族が多く住んでいる四川省を巨大地震が襲って、信じられない数の人々が死んだことには胸がふさがる思いだ。神というものがあるとしたら、あまりに不公平ではないか。

いや、そうではない。地震の被害は、かなりの確率で人災であることを、13年前の神戸でわたしたちは知った。あの時と決定的に違うのは、わたしたちには、四川省までの列車も切符もなく、遠く西方を強く祈ることしかできないことなのだ。

聖火リレーの写真です
http://firokawa1996.seesaa.net/archives/20080428-1.html


ラベル:スポーツ 国際
posted by フォーラム色川 at 19:48| 東京 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | コラム 安東つとむのWEB街風通信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月05日

大阪の合理性に学ぶ旅

安東つとむの「街風通信」4月号

 私の友人には、京都や奈良にはよく行くけれど、大阪には行ったことがないという人がけっこういる。東京に住んでいると、それこそ阪神タイガースファンでもなければ、わざわざ大阪に行く必要がないと思っているふしがある。

 実は私も、大阪市内をきちんと回ったことがない。昔むかし大阪城に登ったこと、大学のゼミで怪しげな「飛田新地のフィールドワーク」をやったことぐらい。一度も行ったことのない人をとやかくは言えない。

 しかし私は、この春ようやく“大阪本格デビュー”を果たした。ひょんなことから、私とまったく違ったタイプの、きわめてまめで旅行好きの、いや旅行計画が大好きな友人と、2日間の大阪ツアーをすることになったのだ。

 といっても、どこでも行き当たりばったりの私は、今回も1日は仕事で、残る1日を司馬遼太郎記念館に行くというぐらいの計画しかない。そしたら持つべきものはまめな友だち、1日目の夜からバッチリ大阪街歩きのコースは決められていた。

 初日の夕方、心斎橋のホテルから夕飯も食べずに、えんえんと通天閣まで歩かされた。東京の人にはわからないかもしれないが、なにしろ現地の人から「よう歩きましたな」と驚かれたぐらいだ。まあ、おいしい串揚げは食べられたけど。

 文句を言っているわけではない、むしろ感謝している。その最大の理由は、私が大阪のことをまったく知らなかったと理解させてくれたからである。

 2日目朝一番、まだ係の人が表を掃いている時から、幕末の蘭学者・緒方洪庵の学塾・適塾に連れて行かれた。ほぼ完全な形で建物が残っているこの塾には、かつて無名時代の福沢諭吉や橋本左内、大村益次郎といった英才が集っていた。

緒方洪庵の私塾「適塾」の前で.JPG

 なぜここに蘭学の塾が開かれて、全国から英才が集まったのか。なぜ江戸や京都ではなかったのか。それはまさに、ここが大阪だからである。

 ひとことで言えば、朱子学の教えにがんじがらめになって、やたら形式を重んじる武士階級より、経済の中心・大阪にふさわしくこの町の人々には、合理的な蘭学の思想を容易に受け容れる素地があったということだろう。
 
 そのことをもっと強烈に感じさせられたのは、「大阪企業家ミュージアム」である。ここには造船・鉱山・鉄道・電気・紡績・新聞・保険・製薬から食品までの企業人100人の業績が一同に展示されている。

大阪企業家ミュージアム.JPG

 日本のほとんどの企業は、この大阪から生まれたのかと思うほど、その数と質の豊富さは素晴らしい。そのすべてに賛同するわけではないけれそ、たしかに合理主義的な発想なくして、企業家は成り立たない。

 しかし、大阪商人は合理的精神、つまり儲からないことはやらないわけではない。

 中之島公園の中に建つ、明治37年建設の3階建ての重要文化財・府立図書館は、企業人・住友の第15代吉左右衛門が、当時の金額にして20万円、今で言えば数百億の金を寄付して建てたものなのだ。

大阪府立図書館.JPG
 
 中之島公園にあるもうひとつの重要文化財・大阪市中央公会堂も、北浜の風雲児と呼ばれた相場師・岩本栄之助が、当時の金で100万円という莫大な私財を寄付して建てられたものなのだ。

大阪公民館.JPG

 わが町のためになるなら、私財は惜しくない。それが大阪の合理精神なのだろうか。

「司馬遼太郎記念館」の内部.JPG

 そのことは、すべてボランティアたちが運営を担っている「司馬遼太郎記念館」でも少し感じたが、その話はまた別の物語である。
ラベル:歴史
posted by フォーラム色川 at 18:18| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム 安東つとむのWEB街風通信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月25日

恥を知らない大国

【街風通信 3月号】
  

 とある大国がある。歴史も文化の伝統も素晴らしい。人口も世界一で、国土も世界第2位。経済もいまやアメリカに迫っている。その大国は、常に世界中から期待と不安が寄せられている。

 期待の方は十分である。この国の成長は、まだまだ飛躍する可能性を秘めている。

 不安の方はどうか。こちらもまだまだ飛躍的に成長する可能性を秘めている。世界の全人類を敵に回してもいいぐらい「成長の可能性」が。
 
 アフリカのある国に厳格なイスラム法を導入した国がある。その国には数百万人のキリスト教徒がいる。当然彼らは反発した。政府はどうしたか。あろうことかアラブ系の民兵に武器や金を与え、キリスト教系の黒人の村を次々と襲わせたのだ。

 数万人の死者、数百万人の難民が生まれた。中には、奴隷にされた少女たちもいる。このコラムでも紹介した『メンデ 奴隷にされた少女』は、この国・スーダンの出来事である。

 そしてくだんの大国は、この「史上最悪の人道危機」といわれるスーダンの後ろ盾になっている。国連安保理がダルフール地方の住民虐殺に制裁決議をしようとしたら、この大国は拒否権を発動すると脅すのだ。
 
 もちろんただでそんなことはしない。石油輸入や武器輸出でスーダンとは切っても切れない関係だからだ。
 
 スティーヴン・スピルバーグという世界一の映画ヒットメーカーがいる。『シンドラーのリスト』でアカデミー賞を受賞した彼は、この大国で開かれるオリンピックの芸術顧問だった。

 しかし、さすがにダルフールの虐殺を容認する大国に対して「これ以上この役割を続けていては良心の呵責に耐えられない」と抗議して辞任した。
 
 そんなことには慣れているのか、この大国が次にやったことは何か。50年前に軍事侵略して自国の領土にしてしまったチベットでの弾圧である。

 チベット語さえ禁じて、民衆が敬愛するダライ・ラマの写真をもっているだけで獄につながれるというあまりの圧政に抗議して僧侶や住民がデモをしたら

 武力で弾圧し、それに抗議して住民が「暴動」を起こしたら、圧倒的な武力で制圧し数十人の死者を出しながら、世界に向かっては「一般市民がダライ・ラマ一派に殺された」などとデマを流す。

 しかも一切外国のジャーナリストは入れないままで。
 
 私はこの国が決して嫌いではない。親しい友人もいる。尊敬できる人もいる。映画だって素晴らしい。つい最近も『胡同の理髪師』に感動したばかりだ。学ぶべきこと多い国だと思っている。

 しかし、中南海に棲む政治的指導部たちには、1ミリもの敬意も感じない。かつてチベットを救おうとし、民主化を進めようとして保守派に倒され憤死した胡耀邦という政治家をのぞいては。

 20年にわたって支援してきたチベットがふたたび危機である。私たちもまた、この日本でできることを始めなければならない。

 しかしそれにしてもこの大国は、これほど人権感覚にうとくて、よくも人類の祭典を開こうと考えるものだ。


 私たちはかつてあなたの国から教えられたのだよ。
 
 恥を知るという文化を。

                      安東 つとむ
ラベル:国際
posted by フォーラム色川 at 21:56| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム 安東つとむのWEB街風通信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月29日

ラズロでもジュリアでもなく

【WEB街風通信 08年2月】

締切真っ最中に何げなくテレビをつけたら、若き日のジェーン・フォンダとバネッサ・レッドグレープが焚き火を囲んで語り合っていた。
ああ、あの映画だ。

 富豪の娘に生まれたジュリアは、台頭するファシスト・ナチスの焚書や学問蔑視、ユダヤ人弾圧が許せなくてレジスタンスに身を投じる。親友のリリアンは、彼女の強さ凛々しさにこどものころから憧れ続けた。

 そして今は、高名なハードボイルド作家ダシール・ハメットと暮らし、自身も作家として成功したリリアンのところに、ジュリアから人づてにある依頼が来る。

 モスクワに行く途中にベルリン経由で来て、5万ドルを運んでほしい。そのお金で1000人の人々がナチスの獄から救われると。「でも危険だから断ってもいいのよ」。しかしリリアンはその依頼を引き受ける。
 
 再会したジュリアの片足は義足だった。「娘がいるの。名前はリリー(リリアンの愛称)。アルザスのパン職人に預けている。あなたに育てて欲しいの」
 
 モスクワに着いたリリアンの元に、ジュリアが殺害されたとの知らせが入る。
 彼女はアルザスのパン屋をしらみつぶしに探すが、ついにジュリアの娘は見つからなかった。
 
 実話に基づいたリリアン・ヘルマン原作の映画は、その年のアカデミー賞の話題になり、ジュリアを演じたバネッサ・レッドグレープは助演女優賞を受けた。
 
 その後のリリアンはどうしたか。
 戦後アメリカでマッカーシー旋風という、左翼的文化人やリベラルな知識人・映画演劇人弾圧の嵐が吹きすさんだとき、ほとんどの人が、迫害や、職を奪われてしまう恐怖に抗しきれず友人の名を売る中で、「ハリウッド・テン」といわれたごく一部の反骨の人々は、最後まで友人の名前を挙げることもせず、ハリウッドを去った。
 
 リリアン・ヘルマンもまた、夫ダシール・ハメットとともに友人を売ることを拒否してこう言い放った。「今年の流行の色に合わせて服は着られません」

 第2次大戦さなか、フランス植民地モロッコの都市カサブランカはドイツの占領下に陥り、ナチスの手から逃れようとする難民があふれていた。
 
 カフェを経営するリックのもとに、反ナチスのレジスタンス指導者ヴィクター・ラズロが訪れる。リックの持つ中立国への通行証を欲しいと頼むために。しかし、ラズロの傍らに立つ女を見て、リックの顔色が変わる。かっての恋人で、理由も告げずに去っていったイルザだった。
 
悩むリック。そして2人はふたたび愛を確かめ合うことになる。
 
 しかしリックは、最後はラズロを追うナチスの少佐を射殺し、通行証を渡して、中立国へ旅立つラズロとルイザを見送る。万感の想いでリックをふり返りながら飛行機に向かうルイザ。
 
 レジスタンスに身を投じようと、夜霧の中を友人の警察署長とともに去っていくリック。映画史に残る名シーンである。
 
 この映画にも、のちにエピソードがある。
 
 『アニーホール』でアカデミー賞を取ったウッディ・アレンは、この映画へのオマージュとして、『ボギー 俺も男だ』を作った。ラストシーンには、なんとリック役のハンフリーボガードまで登場させるほど、愛情をこめて。
 
 そしてもう一つのオマージュも。ベルギーでハスキーな声と美貌で注目された、若い女性ボーカリストは、デビューするとき、自分の芸名を「ヴィクター・ラズロ」とした。
 
 人には忘れられない映画がある。

 私はついにラズロにもジュリアにもなれなかったが、リリアンやリックの道なら選ぶことができた。何ものかを実現しようとする人に学び、支える存在に。
 
 そうして私は、もの書きの道を選んだ。
                       安東つとむ






※管理者注:フォーラムに参加しています、酔流亭さんも同じ映画を観てブログに書いております。
http://suyiryutei.exblog.jp/tb/8078673

ラベル:歴史 映画
posted by フォーラム色川 at 17:50| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | コラム 安東つとむのWEB街風通信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月09日

新春号

【街風通信・新春号  2008.1】 

07年を代表する漢字は「偽」だそうです。

いつからこんなにも、ニセモノ、まがいものを平然と厚顔に売りまくる社会になったのか。

この国はどうなってしまったのか。しかし一方で、目立たぬ地道な修行や訓練や努力といった、いまどき流行らぬ言葉を支えにして生きている人たちも、少なからずいます。若い人たちの中にも。

 「美しい国」などと、なに言ってんのかわかんない人が内閣を放り出しました。でも、よくぞ放り出してくれたとはほめないまでも、ひと安心はついたというのが実感です。

これで憲法9条も、女性たちの権利を保障した憲法24条も、改正される危機がとりあえず遠のいたからです。私の友人は、それを「潮の目が変わった年」と表現しました。

まったく同感です。9条の会に見られる大きなうねりや、私たちのようなものがつくり出している小さなうねりが、数限りなく積み重なって、この潮目を生み出した。それが2007年だったと思います。


「偽」ではない言葉たちもありました。

「本を読む人の言葉の背後には、深い世界が広がっている。それを教養というが、その質は武道の世界で極めるものと同じだ」

「魂に感じた言葉を明日実行しない人は、永遠にできない」

「失敗は試練ではない。成功こそ試練だ。わかっていても人は傲慢になる」

「己の歩んできた道を胸の中にしまいながら、唇を真一文字にしぼって生きてきた。それが日本人の美意識だった」

 若い人たちに語られた言葉たちをうけとめながら、そのような言葉を創造できる生き方を、2008年も貫きたいと思っています。

   安東 つとむ
ラベル:ご挨拶
posted by フォーラム色川 at 13:46| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム 安東つとむのWEB街風通信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月26日

あのころハンガリーで起きたこと

【WEB街風通信 2007年12月】

 1956年、昭和でいえば31年。父親の読む新聞を肩越しにのぞいていた私は、建物が壊れてがれきがころがり、人々が影をひそめた街を戦車がわがもの顔に通っている写真を見て、これはなんだと聞いた。

 市民が戦車に撃たれているんだと父親は答えた。どうしてそんなことをするんだと聞く私に、父は支配したい奴はいつもこういうことをすると答えた。それは12歳のこどもに理解できるようなことではなかったが、私の記憶には鮮明に残った。

 それから12年過ぎて、1956年のハンガリーのブタペストと同じような光景が、チェコで起きた。そのとき私は、チェコの民主化を戦車で弾圧したソ連の大使館にデモをかけていた。自慢できるようなものがきわめて少ない人生の中でそれは私にとって貴重な体験だった。
 
 1956年のハンガリーで起きた動乱の意味を知ったのは、大学に入ってからだった。前にこのコラムで、スクリーンで思慕を募らせたルチーナ・ヴィニエッカというポーランドの女優に、実際に30年後に会って感動した話を書いたが(注)、40年以上もソ連に支配され続けた東欧の人々への特別の思い入れは、あの少年の日から始まっていたのだ。
 
 そして50年後、ハンガリー動乱を戦った人々を描いた映画が公開された。邦題は『君の涙ドナウに流れ ハンガリー1956』。

 まるで3流の恋愛映画のようなタイトルだが、原題は『愛、自由』とシンプルである。映画を見れば、その原題がふさわしいと思うだろう。
自分たちの父や母や兄弟が命をかけて戦った市街戦の映画なのだ。
なのにこんなタイトル、日本人として恥ずかしい。

 それはともかく、映画館でびっくりした。平日の昼前だというのに、客席は8割埋まっている。若い人もいるが、圧倒的に多いのは中高年の人たちで、中年カップルも多い。

 あのころ少年か青年の入口にいた人たちが、もういちど私のように、あのとき何が起きて、何が失われたのかを確かめに来たようだった。
 
 1956年はメルボルンオリンピックの年である。ポーランドは水球で金メダルを狙う。しかし、ライバルの強豪はソ連である。ソ連との試合で勝つと、自国の政府や秘密警察から彼らは脅される。

 「親愛なるソ連」に敬意を示して負けなさい、とまでは言わないが、ソ連のかいらい政府はモスクワの機嫌を損ねないことだけが大事なのだ。水球のスター選手アルチは、オリンピックを目指している日々の中で、大学で民主化を戦う少女ヴィキの凛々しい姿に心を奪われる。

 しかし、水球で金メダルを取ることが彼の人生の目標である。いったんはヴィキと共にバリケードの中で戦車と戦うが、やがて彼はもう一度オリンピックでソ連と戦うためにメルボルンに向かう。

 そのバスとすれ違うのはブタペスト攻撃に向かうソ連の戦車の大軍だった。そして歴史に残る壮烈な流血試合の結果、ポーランドはソ連を4対0で下す。しかしそのころ、ヴィキは処刑を待つ牢獄にいた。
 
 実際の史実と、無数にあったに違いない極限の中のラブストーリーを組み合わせた佳作である。私にとっては、人生を重ね合わせてしか見られない映画だった。ふり返ると、メガネを静かにぬぐう人、ハンカチでそっと目をおさえる人たちの姿ばかり。

 言葉をかわさなくともわかる。人生を重ね合わせていたのは、私だけではない。
                             (安東つとむ)

(注)イエージー・カワレロウィッチ監督の名画『夜行列車』(1959年)に主演したルチーナ・ヴィニエッカに、1989年のベルリンの壁崩壊の直後の東京で会った時の体験を書いたコラム。いずれこのブログで再録します。

『君の涙ドナウに流れ ハンガリー1956』公式HP
http://www.hungary1956-movie.com/


ラベル:歴史 映画
posted by フォーラム色川 at 12:23| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム 安東つとむのWEB街風通信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。