2010年03月03日

フォーラムデイズ   2010年 NO.1-2

■「色川大吉は戦後史をどう生きたか」第7回レポート 
〜『若者が主役だったころ』いよいよ佳境に!

  サブレポート@「日本共産党第六回全国協議会について」 
                    

                    スタッフ   伊藤

 日本共産党第六回全国協議会(六全協)とは、1955年7月に開催された、それまで同党が展開してきていた武装闘争方針の放棄を決議した会議の名称です。

 今回のサブレポートでは、同党がなぜそのような武装闘争路線を選んだのか、そしてその路線はなぜ放棄されたのか、さらにその決議がもたらした影響などについて報告しました。
 
 1950年1月に、コミンフォルム(1947年に創設されたヨーロッパの共産党・労働者党の情報連絡機関)の機関紙に発表された「日本の情勢について」という論文がこの一連の動きの発端でした。

 これは当時「アメリカの統治下においても平和革命は可能」としていた日本共産党を激しく批判し、日本の独立を実現するために闘争にたちあがることを呼びかける内容でした。

 同党内はこの批判を受け入れるかどうかで、所感派(徳田球一ら)と国際派(宮本顕治ら)に分裂します。

 そして主導権を握った所感派により、51年開催の第5回全国協議会において「日本共産党の当面の要求」(51年綱領)と「軍事方針」が決定。
 
 この方針に基づき、「山村工作隊」「中核自衛隊」といった組織がつくられ、各地で派出所の襲撃や火炎瓶闘争が展開されます。

 しかしこういった過激な路線は世論から支持されず、52年10月の総選挙で日本共産党は公認候補が全員落選し、35の議席をすべて失います。
 
 こうしたなか、所感派の徳田球一が53年に亡命先の北京で死去。同派の野坂参三も国際派の宮本顕治と和解します。

 こうして迎えた55年7月の第六回全国協議会で、「第二の重要な問題は、党は戦術上でいくつかの大きな誤りをおかした。(中略)誤りのうちもっとも大きなものは極左冒険主義である」「党中央はすでにこの一月、極左冒険主義的な戦術と闘争形態からはっきり手をきる決意をあきらかにした」と決議、従来の武装闘争路線は否定されます。
 
 ここで問題になるのは、色川先生も『若者が主役だったころ』で書かれているように、それまで党の方針に従って活動していた人たちのことです。
 
2.6サブレポ1.JPG



 「極左冒険主義で、誤りだった」という一言で片付けられてしまった彼らのこれまでの命がけの闘争は何だったのでしょうか? そしてこれからどうすればいいのでしょうか?
 
この非合法活動にかかわった人たちを描いた作品として、柴田翔『されど我らが日々−』(文春文庫)と大島渚監督作品『日本の夜と霧』(60年10月9日公開、12日上映中止)があります。

 深く傷ついた彼らを、現在も日本共産党は「分裂していた一方が勝手にやったことで、党としての活動ではない」(『日本共産党の八十年』より引用者要約)として突き放したままです。

 この大転換により、それまであった「前衛党は間違いをおかさない」という日本共産党の無謬性の神話と同党への信頼が崩壊し、新左翼各派が結成される種がまかれる要因のひとつになったという意味で、この六全協とその決議は戦後史の大きなポイントだということがいえます。


 色川先生の転換点を追体験する 
サブレポートA「スターリン批判とハンガリー革命について」


                     スタッフ 本橋

 1917年のロシア革命でロシア社会民主党(共産党)はレーニンが率いていましたが、1924年1月にレーニンが死ぬと、スターリンが後継者に選ばれました。

スターリンは非常に傲慢な冷酷無比、そして疑い深い人物でした。この男がソ連のトップに立ったせいで粛清、処刑の嵐が吹き荒れ、膨大な数の人が不慮の死を遂げたのです。


2.6サブレポ2.JPG

 スターリンの死後3年たった1956年2月、ソ連共産党第20回大会が開かれ、フルシチョフが秘密報告をしました。この報告はスターリンに対する個人崇拝批判であり、スターリンの行った粛清・処刑の内容が具体的に明らかにされました。

しかしスターリン体制自体の批判ではなく、むしろ温存であり、このことは後のハンガリー事件において世界が知ることになるのです。

 早くもスターリン批判と同じ年の10月23日、ハンガリー共産党の圧政に反発した学生たちが、複数政党制などの16項目の民主化要求をかかげて首都ブタペストでデモを行い、治安警察と衝突。新たに労働者が加わり、市民革命に発展しました。

これにソ連軍が介入しますが、混乱を収めるために追放されていた改
革派のナジ・イレムがハンガリー首相に就任し、ソ連軍の撤退を求めたため、いったんは撤退します。

 しかし、ワルシャワ条約機構からの脱退と中立国化が宣言されてのち、再びソ連軍大部隊が侵攻し、無差別破壊を行いました。これにより、ハンガリー国民約3000人が死亡、20万人が西側に亡命し、ナジ・イレムは捕えられ2年後に処刑されます。

このようにして、東欧の民主化を力で押しつぶしたのです。

 日本では、自民党の芦田均と社会党右派の西尾末廣らによる「ハンガリー救援会」が立ちあげられ、多くの募金も集まり、1957年1月より約1カ月の間、慰問班による救援が行われましたが、医師や看護婦を伴ったものではありませんでした。

ハンガリー難民日本受け入れの働きかけに対しても、ハンガリー事件直
前の1956年10月19日に成立した日ソ国交回復への悪影響を懸念して、実現されませんでした。

 進歩・左翼知識人たちも、おおむねハンガリーに対しては冷たいものでした。

 一方で、ハンガリーへのソ連の軍事行動と日本共産党のスターリニズムを共に批判する、新左翼と呼ばれる一群が現れました。

 そのような意味で、ハンガリー動乱は、日本のそれまでの進歩的文化人にとっての「リトマス試験紙」のような役割を果たしたのかもしれません。
 
大きな変動が起きたとき、その人がどう反応するか、そこにその人の本質が表れるからです。

そこから出発して、どうして自分はそのことにきちんと向き合おうとせず、従来の立場や判断や、党や常識や人から言われたことを自分の判断であるかのように思いこんでしまったのだろうか。

そういう発想をもてなかったら、その時点でその人は思想家としては死んでいます。

 若き色川大吉先生が、ハンガリー動乱のとき、ソ連の戦車が抵抗する市民に発砲したニュースを聞いて、敬愛する遠山茂樹に憤懣を叩きつけて「遠山さん、これはいったいどういうことなんですか」と詰め寄ったところには、若き色川先生の熱い感性や高い意識を感じます。

実際、六全協とハンガリー事件は色川先生の共産党からの脱党を決定的にします。
 
このように、「スターリン批判とハンガリー動乱」は、戦後思想史の転換点だったと同時に、若き色川先生の思想的転換点にもなりました。

ラベル:講座情報
posted by フォーラム色川 at 01:05| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | レポート(報告) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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